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樹徳会について

樹徳会について

 樹徳会員が長年望んでいた商学部交流施設・樹徳会館が大学当局のご努力もあって1995年(平成7年)8月3日に開設した。また1996年9月、実情に合わなくなった樹徳会会則を30数年ぶりに改正し、その後、一部手直しをした。

 前身の徳照会から数えて樹徳会は89周年、同志社大学商学部は創立66周年を迎えた。戦争中何年間か活動を中止したこともあったが、それでも大学の各学部で一番古く、会員も現在では5万人を超え財政基盤も確固たるものがあって伝統輝く同窓会である。会の事業として学内の実情をとらえた樹徳会報を発行し終身会費3万円(ただし新卒業生にかぎり2万円)を納付された方に洩れなく配布している他、9月に京都で年一回総会を開いて先生方と卒業生が旧交を温めている。そこでごく簡単に樹徳会の歴史を記した。ご一読下さって樹徳会がどうしてできたかをご理解願えれば幸せである。

徳照会時代1922年(大正11年)〜 1928年(昭和3年)

 高商部は1922年創立され、1926年3月にその第2回卒業生を出した。この第2回卒業生が世話役となって同窓会が結成され、当時の高商部校舎「徳照館」にちなんで「徳照会」と命名された。したがって、この時代は創始期である。1927年に校舎移転運動が起こり、これが実を結んで、1929年、岩倉に新校舎が建築された。

樹徳会時代1929年(昭和4年)〜 1958年(昭和33年)

 岩倉に新築された校舎名は「樹徳館」であったので、徳照会も「樹徳会」と改称した。1931年には高商部を同志社高等商業学校と改称、1932年には初代専任校長として鷲尾健治氏を迎え、意気盛んな高商健児が育成されたのである。

 しかし、1941年の太平洋戦争の開始によって情勢は一変、1944年高商は経済専門学校と改称され、授業もほとんど行われず、出征や勤労動員の日がつづいた。そして以後1958年まで、樹徳会の活動も休眠状態を余儀なくされた。

 1945年8月に終戦、1947年からの六三制教育体制の実施によって、経専は廃校となったが、1949年から新制同志社大学商学部として再生した。

同志社大学 樹徳会時代1959年(昭和34年)〜 1977年(昭和52年)

 1955年に入って戦後の混乱がようやく収まり、樹徳会再建の声が高まった。商学部創立10周年の1959年、当時の商学部長吉川貫二教授の尽力によって臨時総会が開かれ新会則が制定されて会の名を「同志社大学樹徳会」と改め会報も復活した。新会則により年次支部・演習支部の他に北海道(札幌)・東京・東海(名古屋)・石川県(金沢)・大阪・広島・福岡それに香川県(高松)の各支部も復活あるいは新設された。毎年9月に年1回の総会を催し200名をこえる出席者があって、樹徳会は新しい時代を迎えた。

同志社大学 商学部 樹徳会時代1978年(昭和53年)〜

 1965年には「樹徳会館」が開設され、樹徳会の活動は新たな展開を期待されたが、1969年の学園紛争に象徴されるように、世相も新入会員の意識にも急激な変化が見られるようになり、樹徳会も一つの曲がり角にきて会館を撤収、以後各所を転々としたあと1978年6月には会の名を「同志社大学商学部樹徳会」と改称、商学部卒業生を理事長に選出し今日に至っている。1987年4月以降同志社大学至誠館6F に事務所をもうけて、事業を進めていたが、先述のように1995 年8月初め、新事務所(会館内)を左記の住所に開設して新たな第一歩を踏み出し、今日に至っている。